昭和52年03月08日  朝の御理解



 御理解 第42節
 「これほど信心するのに、どいしてこうことができるであろうかと思えば、信心はもう止まっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」

 信心は頭で考え頭で分かる。心で受ける。心で頂く体で行なう。この三つが足ろうてまいりませんと信心が進みません。信心が進むという事は、やはり分からなければならん。分かった事を心で練らなければならない。心で練っただけではいけん。それを練り上げたものを、行いの上に現わさなければ信心は進みません。
 「これほど信心するのに」と、どうしてこんな事が起こるだろうかと、と思うたら信心はもう止まっておると、仰るのですから、もう止まる事を知らない限りない進展をとげるためにも、そういう時の、言うならば心構え。それを常日頃ちゃんと頂いておかねばならない。信心しておるから、雨もふらん風も吹かんという事は決してない。その雨の時、風の時を、いかにそれを合掌して受けるか。または元気な心で受けるかと。
 所謂是はまぁだ信心が足りんのじゃと思うて、一心と信心を続けていけば、そこからおかげが受けられるというのは、そこから一段信心が進むという事である。頭では分かっただけでは、いうなら頭でっかち。心で分かっただけでは、それを人に実意を持って、親切丁寧を持って伝える事すら出来ません。私の心を見て下さいと言うても分からんのである。信心が分かって始めて、それが人にも伝えられるのである。行じなければ行なわなければ、おかげの世界に出る事も出来ません。この三つが足ろわなけらばならん。
 昨日から体が悪くてもう昨日は、もう本当に死ぬ程きついとはこういう事だろうかと言う様にきつかった。そしたら教典を開かせて頂いたら、「死に際にもお願いをせよ」という御理解ですからね、昨日の御理解。所が死に際にはとても私はお願いが出来んと思うた。こげん苦しかならね、そこで私は、昨日あのタイミングという事を頂いたが、常日頃に素晴らしいタイミングのおかげを頂いておると、これ程間違いのない働きの中に起きて来る事なんだから、ご神慮御神意に間違いはないという事になって来る。
 だから常日頃の信心がいかに大事かという事を、私は昨日分らせて頂いた。もう日々の中にです、これほどの間違いのない働きを受けておる中に、おかげを頂いておるのであるから、もうそりゃ本当に苦しい時には、金光様のこの字も言わば出らん事ある。けれども、そういう苦しみも、常日頃日々この様にも、私のバックは何時も、天地だなと、天地の親神様の御守護を頂ききっておるなと思われる程しに。
 万事万端の上にお都合お繰り合わせを頂き、素晴らしいタイミングの中に、今日もお都合お繰り合わせの中に、一日過ごさせて頂いたという時に始めて、心からのお礼が言えるのであって、もう苦しい時には、実はお礼が言えん事が昨日分かった。そげん苦しかったんです。もうお話をする事がきつかった。そこで、常日頃の信心がいかに大事かという事が、いよいよもって分からされた。
 お願いがある時だけ、拝むなり、参ったりする事が信心ではない。もう生活の全体が信心になる事によって、成る程天地がバックであろうか、天地の御守護を受けておると言う、素晴らしい体験の中に日々が有難い勿体ないで過して行かれる。その有難い勿体ないの中にも、やはり雨もあれば、風もあるという時に、どうしてこういう事が起きて来るであろうかと、思わんですむ訳です。神様のご都合です。
 片島せんという、女の先生で大変お徳を受けられた先生があられた。体が大変お悪くて、もうそれが、その苦しい時には、もうそれこそ、七転八倒するほどに苦しまれる。神様、これほどの苦しみ、とてももう持てません。どうぞ一時も早うお引き取り下さいと言うて願われた。そしたら神様がね、その方が苦しむと、氏子が助かると仰った。私が苦しんで氏子が助かる。
 そんならもう一頑張りせにゃぁと、言うたと言うお話が残っておりますですね。私共の苦しみが、人が助かる事につながる程しの苦しみをしてみたいですね。今朝がたから、たばこの煙がふうとこう、私の顔の上を横切ったような感じがした。その何とも言えん、香ですよね、タバコの香というのは、タバコは飲まん者でも、悪いと思わないくらいに良い香がふっとするもんです。そしたらそれが実際に、のどに入ってむせてしまった。タバコの煙でむせますね、よく。
 そしてそれから色々と頂く事がね、一服をさせられると言う事。一服をさせて下さると言う事。一服をさせられる。一服をさせて下さる、もう大変な違いなんです。例えば私が、例えば修行不足で人が助かりにくい。それでも助けたいの一念は何時も燃えておる。神様も助けて、取次ぎによって助けたいっちいう働きが起こっておる。そんなら、私の体に、修行を神様がさせなさる。そこにさせられる修行があるのです。
 いうならば、させられる一服なんです。まぁ寝とるとに一服しとるようなもんじゃありませんね。けれどもこれが、させて下さると言うのが、何時もここで頂きますように、「楽はすると思うな、させて頂け」と言うのがそれです。神様がさせて下さると言うのは痛いもなかなれば、痒いもない。この世にこんな極楽があるだろうかと言うような、味わいの中に一服をさせて下さる。私共もそれを常日頃いただき、感じよるのですけれども、私が昨日から今日にかけての、それは神様が、させなさる。
 だからきついですわい。だからんなら皆さんがですね、例えば苦しいと思われる時には、神様がさせござる苦労だと思わにゃいかんです。例えばお金に不自由しとるならば、お金のご恩徳も分からなければ、お金のあり難さも分からんで、常日頃はもう、100円くらいと思うざぁっと、その使うと言ったような、その頂き方が分からんから、金で何時までも苦労せんならん。ということを例えば分かったら、有り難いわけです。
 神様もうこのギリギリの金の苦労をさせて、頂きますおかげで、愈々金の有り難さが分かりましたと、愈々分かった時からは、もう苦労はないです。させられる修行。はぁ自分が慢心が起っとったけん、もうこれから慢心を出すような事はございませんと言うて、その、おかげを言うたら、それで言うならさせられた修行に対して、答えた事になる。なら私共にそれが沢山あるわけです、皆さんの場合にはそれが沢山ある訳です。
 色々悩みがある、苦しみがあると言うのは、させられておる言うならば修行なのです。そこでやはり、神様がさして下さる一服。そこで一つ本気で信心させて頂くならば、決して神様が、厳しい事、難しい事ばっかり言うて、その修行の方にばっかおいやりなさるち言う事は決してない。どんな修行の最中にあっても、神様がそこの、時々にはです、そこで、例えば昨日の御霊様の話じゃないけれども、言うなら10日10日に荷物をちょっとそこに置いて、一服する事が出来るような働きが必ずあるものです。
 だから自分でいっちょう、今夜飲んじゃろうか、自分で今夜いっちょう遊びにでん行こうか、と言ったような事では、本当な信心は分かりません。もうさせて下さる時でなかなきゃ、合掌して受けられませんもん。だから信心させて頂くなら、そこん所に、一つ苦しいと思わずに、そのその事が、間違いのない道を歩かせて頂く、そこに人間の弱さを神様がカバーして下さるという働きが生まれてくるです。楽はせんぞと言う気になったら、神様がさせずにおかんという働きが生まれて来る。
 高橋正雄先生じゃないけど、もう自分は食べる資格もないから食べん、と決められたら、食べさせずにはおかんという働きが起こったと言っておられる。食べさせずにおかんというその働きそのものが、神の心なのだ。その神の心が分かって信心を進めて行くのである。神の心が分らんなりに、信心を進めると言うのは、ただ心で有り難い有り難いばっかり言うとっただけでは、そういう理が分らないと、頭でも良く分らないと出来ない事が分る。それが体でこなされて、初めて血肉になるのです。
 させられる一服。させて下さる一服。大変な違いです。それでも、氏子がおかげが頂きたいと言うから、やはりそういう働きが始まるのです。めぐりが深い、自分の家はめぐりが深いと、なんとはなしに分るのである。それでもおかげを頂きたいと思う。それは丁度、沢山な借金を持ってまぁ借金払いに四苦八苦しておるような、人が信心しておかげを頂くと、段々その借金が減って行く。
 言うならば働きのお金が少しずつ貯まると、貯まっただけ神様が集金に来て下さる。だからいかにも働けど働けど、我が暮らし楽にならざる、と言う様な感じなんだけれども。その借金を取り祓われた時には、もう既に100万の借金が払われた時には、100万円の徳になっておるから素晴らしい。石川啄木と信心はそれだけが違うんです。これ程信心するのに、どうして本当にこんなに何時までもおかげが受けられんじゃろうか。
 信心するから貯金が出来よる、信心の。だからその貯金を神様がまず借金払いさせて下さろうとする働きが始まる。その働きが分からんから、どうしてという事になるのである。その借金払いが出来た時には、もう本当にようやく借金払いが出来たと思うた時には、もう100万円の、言うならば分限者になっておる事に気付くだろう。これはおかげを頂いた者の実感であり体験なんですね。
 修行がある意味で終った、時にはもう既にそこにそれだけの徳を受けておる事に気付くのです。石川啄木と信心の差はそこにある訳です。どうしてこの様な事が起きてくるであろうか。そう言う風な思い方をした時にはもう信心は止まっておるのだと言う事です。こういう例えば信心が合楽では繰り返されておる訳です。だから皆さん、是が言うならば合楽の信心ですから、そこん所を取り違えない様に頂いていかにゃいかんです。昨日は若先生がご本部へ参拝させてもらいました。
 今度学院生を引き受けた、ところの教会が全国から集まります。九州からは合楽と甘木と福岡教会です。まぁまちまちの話の中に、色々まぁ話を聞いて来たり、また自分もお話をしてきたそうですけれども、ははぁあそこの教会があんまり人から非難されると言うのは、あそこにあるばいな。もう本当に真っ向から本部のそのあり方を、こう人の足をとるような事を言われる先生があるかと思うと、もうあげな事はもう止めてもらわにゃ、私共にはもうあげな事はもう来年から断わると言った先生もあったそうです。
 それがもう大教会の先生です。十五日じゃ長すぎけんで、まぁ半分くらいにしてもらいたい。といううちがあった。合楽はどうだったでしょうかっち言うた。内にはもうあの学院生のまじめな修行態度が素晴らしかったですけれども、何時の間にか内の修行生と一体となって修行が出来た事。同時に本人達もおかげを頂いただろうと思われるように、教会自体もおかげを頂いた事。
 十五日と言う日にちは、長すぎらず短かすぎらず、もうあれより伸びるとまた、こう惰性が、に流れるような事があるだろうけれども、十五日とは丁度良かったと、よか事ばっかり、また事実それが実感でしたから。だからまぁ偉いご本部の先生方からも、そのまぁこれから来年あたりはもっと沢山いるでしょうから、どうぞよろしくお願いしますと言うて、お頼みのお言葉を頂いて帰って来たと言うてもうしておりましたがね。
 だから合楽の場合はどこかと言うと、頭で分かって心でこなして、体で行じておるという信心。ただ血のでるような祈りに人が助けられておると言うのでもなかなければ、ただ心で有難い、有難いと言うて、人が助かっておると言うのでもなからなければ、頭で分かって、心で練らせ、そして体で行じさせると言うのが、合楽の生き方で、合楽理念の言うならば、根本なんです。それにはどういう事になるかと言うと、福岡の初代の「馬鹿と阿呆で道を開け」と言う、それに徹した。
 石橋先生の「信心辛抱さえしとれば、物事とのわん事ないぞ」と言う、言わば信心辛抱に徹した。そこからね、言うならば合楽の信心が、合楽理念が生まれて来たんです。だからそこん所がです、んならどうしてこのような、と言うような心では信心辛抱が出来とらん証拠です。この事だけは我慢出来ん、と言うのは、いかに馬鹿と阿呆に徹して無いかと言う事になるのです。
 それに徹して見なければ分からないて、馬鹿と阿呆に徹して見る時に自分の周辺に煩わしいものが無くなってくるだけではなくて、それで力を受けておるな、徳を受けておるなという事が分かる。信心辛抱してみて、始めて物事成就せぬ事はないなと言う事が分かるのだ。だからそれだけではいかん。そこに、んなら頭で分かると言う、合楽理念あ入って来て、しかもその理念がです、どこまでも、理に合うた、天地の道理に合うた、成る程、なまくさけの人間がさせて頂く信心だ。
 人間が助かる信心だという事が、理論付けられて来るのです。そして、楽しゅう、有り難う、しかも愉快にそれを行じていけれるという事なんです。 昨日の御理解に、引き続いて申しますなら、とてももう死の苦しみといったような時にはもう、そりゃ有難い、もうそれこそ願いをする事も、何も覚えんごつなってしまうのじゃないだろうかと私は思います。私は昨日の、そのくらいな苦しみからでさえそうだったんだから。
 だから常日頃に、合楽理念をマスターして、これさえ行のうていけば、これを行じてさえいけば、必ずあの世この世のを通してのおかげを受けられるという確信を、日々の信心生活の中で、体験して、素晴らしいタイミングを生みながらの生活がいかに大事かと言う事が分かる。そういう間違いのない働きの中に、そういう御守護の中に、この苦しみだから、はっこれはさせられておる一服だな、させられておる修行だなと悟ったら、と翻然と分かる所を分らせてもろうて、おかげを頂いていかなければならんと言う事ですね。
   どうぞ。